永田雅一と京都観光

 京都 太秦エリア

「永田雅一」京都ウエストサイド物語

   

  わたしの憧れ 永田雅一


義母ハルさんは、永田雅一氏が大好きだった。

ハルさんは、無声映画の頃から京都太秦で編集助手をしていた。
編集者としてタイトルバックに、やっと名前が出るようになった頃、
映画の小道具スタッフだった夫と結婚して映画界を退職する。

手に職をつけるために洋裁を習い、店を持ち多くのお弟子さんを育てるまでになった。
映画一本に身を捧げた亭主を支える、内助の功の見本のような人だったハルさん。

永田雅一は、そんなハルさんの憧れの人だった。
太秦のエピソードは数限りなくありますが、
やはり映画界のドン、とも言われた「永田雅一」ほど、
逸話の多かった人はいないでしょう。

少年時代は非行に走り、一時、京都のやくざ「千本組」に籍をおいたのち、
商業学校を中退。マキノ兄弟との縁から日活京都撮影所に入所して、
映画人としての道を歩み始めます。

日活京都撮影所

1934年に日活と東宝の提携調印を壊すため、
沢山のスタッフを引き連れて退社し、第一映画社を創立し、
日活の分裂を導きました。
日活配給網が魅力の松竹の手先になったと噂されています。

1942年には戦時統制により、映画業界が東宝と松竹に二分されて
統合される事を知ると、当局に掛け合って第三勢力による統合を認めさせ、
大日本映画製作の成立に成功し、後に社長に収まります。

この立案をした情報局の課長に贈賄をしたという噂は
60年以上たった現在でも消えていません。

また日本の敗戦で、他の「統制会社」は解散させられたのに対して、
大映だけがなぜ残ったのかという素直な疑問もあがりました。


岸信介

児玉誉士夫

盟友だった、岸信介、児玉誉士夫らとともに、
戦後の一時期、政界のフィクサーと呼ばれたこともあります。

その後「羅生門」のベネチア映画祭グランプリ受賞を契機に
「地獄門」(監督・衣笠貞之助)がカンヌ国際映画祭でグランプリ受賞。
たてつづけに「山椒太夫」「源氏物語」「雨月物語」(監督・溝口健二)が
ヴェネチア国際映画祭で賞を受賞し、国際的に名声を得ます。

永田は最初、映画のグランプリについて無知だったようで、
「羅生門」の受賞の報に狂喜する新聞記者たちに
「で、グランプリってのはどのくらい凄いんだ?」と聞きなおしたそうです。

当時の狂句「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と詠われました。

長谷川一夫を筆頭に三大女優京マチ子、山本富士子、若尾文子、
そして市川雷蔵と映画史に残る大スターを擁し、
60年代に入ると勝新太郎、田宮二郎が頭角を現しました。


長谷川一夫         香川京子

市川雷蔵

田宮次郎

とにかくワンマンで、全盛期には異例の5割配当を行うなど、
自身の手掛ける作品には絶対の自信をもっていました。
そのため映画の製作・配給は行っても、興行は地方興行主に任せており、
直営の映画館は皆無に近かったことが、倒産を早めた原因と言われています。

1953年には、映画制作を再開させた日活への対抗策として、
所属する技術者や俳優の他社への出演を禁止という、五社協定を締結します。

これが原因で、大スターだった山本富士子は永田と対立し、退社。
この後山本富士子は一度も映画に出ることはありませんでした。
永田と喧嘩した田宮二郎も、大映と契約切れになるまで
五社協定を盾に干されることになります。

永田雅一には、映画製作者以外にも、多彩な顔を持っていました。

永田がアメリカで、「私は映画会社のオーナーだ」と言っても、
まったく相手にされなかったが、「プロ野球のオーナーだ」と言ったところ、
絶大な信用を得たことを、大層喜んだと言います。

1953年パ・リーグの総裁に就任し、パ・リーグの父と言われました。
私財を投じて東京都荒川区に東京スタジアムを建設し、
その開場セレモニーで「皆さん、パ・リーグを愛してください!」と絶叫。

しかしその後、東京スタジアムは不入りで不採算が続き、
読売の正力松太郎オーナーが見かねて「巨人も試合に使ってあげよう。」
と救いの手を差し伸べたが、「セ・リーグ、とりわけ巨人の世話になるのは
御免だ」とこれを固辞したのは有名。

経営難でロッテをスポンサーに付けたロッテオリオンズが、
パ・リーグ優勝を東京スタジアムで決めたとき
永田はグラウンドに乱入した観客達の手により、
優勝監督や殊勲選手よりも前に胴上げされました。

  東京スタジアム

その後、正式に球団をロッテへ譲渡する際、無念の永田は
記者会見で号泣。「必ず巨人を倒して日本一になってくれっ!」
と泣き崩れてコメントし、球界を去った。
この願いは1974年のオリオンズ・日本シリーズ優勝で叶えられました。

サラブレッドを購入して馬主にもなりました。10戦無敗で皐月賞、
日本ダービーを制し二冠を達成したが、
破傷風にかかり悲劇の最期を遂げたトキノミノルの馬主でもあります。

その他永田は東京スポーツ新聞、ペプシコーラ事業の代表者でもあり、
日本の映画館で売っているコーラは、みんなペプシと言われました。

60年代からの、映画界の急激な不振の中でも、国際映画祭を狙う
名作や中国など海外との合作による大作、70ミリ映画「釈迦」を制作するなど
超大作路線を歩みますが不調に終わり、大映は、じり貧に追い込まれます。

永田の放漫経営、長谷川一夫の引退。市川雷蔵急逝後のスター不在もたたり、
ついに1971年12月23日に大映は倒産します。

私は高校2年生の冬に、テレビドラマのエキストラで
倒産直後の大映撮影所に行った思い出があります。
ほとんどひと気のない、ガランとした正面玄関に飾られた、
ベネチア映画祭グランプリの像が、やたらに寂しかったのを覚えています。

大言、ラッパで非常識などとインテリから馬鹿にされていた永田でしたが、
フィルムの編集助手をしていた妻の母ハルさんら若い下積みのスタッフに、
廊下ですれ違うときにも、気軽に声をかけてくれる、
そんな、気さくな永田雅一の事が、ハルさんは大好きでした。

朝礼のときに永田が使う、訳のわからないヘンテコ英語に、
他の皆が笑いをこらえていても、ハルさんは笑いはしませんでした。

永田は黒い噂や、強引な人生観で人を振り回してきた人物ですが、
それ以上にカリスマ性のある、人間的魅力のある人物でした。

ハルさんは一人だけ子供を生みました、そして名前を「雅子」とつけました。
今でも永田雅一は、ハルさんにとって憧れの人です。

永田雅一


撮影所発祥の地も「千本組」の縄張りだった。
横田商会 二条城撮影所跡

在りし日の大映京都撮影所

GHQの会社統制下で、なぜ大映だけが生き残れたのか?

「羅生門」ベネチア映画祭グランプリ受賞

「山椒大夫」「地獄門」など次々に受賞

ベネチア出発前の永田

勝新太郎

昭和63年パリーグの父として野球殿堂入り

トキノミノル

映画館はみなペプシ

70ミリ映画「釈迦」

金獅子賞


* 記載しました記事には、義母から聞いた内容以外にも、様々な書籍やHPから参考にさせていただいた内容が混在しています。
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