「天竜寺」と京都観光
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「天竜寺」と京都ウエストサイド物語
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京都 天竜寺
京都の天竜寺は、
吉野で崩御された後醍醐天皇を弔うために、
宿敵であった足利尊氏が
高僧夢窓国師を開山として、
嵐山の亀山離宮を
禅寺にあらためたのがはじまりの寺です。
南北両朝の戦死者の英霊を、
敵味方の別なく慰めることも
天竜寺の大きな役割でした。。
創建以来650余年、応仁の乱の猛火にさらされ
現在は殆ど昔の建築をみることができないが、
京都五山の一位としての格式と借景の美しさは格別です。
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国の歴史と言うものは、とにかく権力争いの繰り返しです。
京の都はその舞台として、多くの戦火をくぐり
たくさんの人の命がなくなりました。
鎌倉幕府がたおれて室町幕府が樹立されるまで、
はげしい戦いがつづき、かぞえきれぬ命がうしなわれました。
はじめは足利尊氏と提携して幕府をたおしたのに、
その後に対立して尊氏にやぶれた後醍醐天皇も亡くなりました。

足利尊氏と後醍醐天皇
夢窓疎石は、新しい覇者の足利将軍の尊氏に
南北朝戦の犠牲になった人々の霊を慰め天下泰平を祈るために、
全国に安国寺と利生塔をたてるよう進言しました。
天竜寺は奈良吉野で死んだ、仇敵後醍醐天皇の菩提を弔う
別格の寺として、嵐山全体を離宮としていた亀山殿跡に創建されます。
建設にかかる莫大な巨費は中国との貿易「天竜寺船」が
大きな役割を果たしたと「太平記」には書かれています。

五年の歳月をかけられた七堂伽藍と嵐山を借景にした
美しい庭の天竜寺は、京都五山の一位となります。
五山というのは、中国にあった南宋の五山制度を真似たもので、
寺に格式をつけて学術センターのような役割をはたしていたらしいです。
鎌倉時代の北条氏が導入しましたが、南北朝時代になって
足利義満によって京都本位の寺院から新たに制定されました。
しかし、その後大火に何度も見舞われ、
ついに応仁の乱での猛火に跡形も無く崩れ落ちました。
そして足利氏の没落により衰退します。

残念ながら現在の建物はすべて明治以降の建築ですが、
嵐山の山並みは千年前と変わらず、その壮麗な伽藍群と美しい庭は
ユネスコ世界遺産に登録されています。
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