嵯峨釈迦堂「清涼寺」
京都の 清涼寺は、
嵯峨の釈迦堂といわれています。
ここには「三国伝来の釈迦像」という、
一見して日本の仏像とは異なる
国宝のお釈迦様がいらっしゃいます。
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昔インドで、生前のお釈迦様を生き写しに、
栴檀(せんだん)の香木で造られた像が
ヒマラヤを超えて中国に伝わりました。
それを中国に渡った東大寺の僧が模刻して持ち帰ったものが、
嵯峨釈迦堂の如来像とされています。
昭和28年、釈迦如来像の体内より、
絹で作られた五臓六腑が発見されました。
これは千年前に人間の構造を知っていた事を示すもので、
当時、中国の医学レベルの高さがうかがえます。
公式ホームページによりますと、その後のレントゲン写真により、
額には銀の一仏がはめこまれており、目は黒水晶、
耳には水晶が入れてあることがわかっています。
また尊像の霊魂として水月観音の彫られた鏡が
入れられていることも確かめられました。
千年前、像が完成し釈迦如来像のお顔に
仏牙(あごの骨)を入れた時、一点から血が出て、
この像が生身の仏であることを示されたといわれています。
また、この釈迦如来像は、九州太宰府から京都までを、
沿道の庶民の労力奉仕で運ばれました。
庶民はわれさきに運搬の役を買って出、像に手を触れることで
感激した庶民の熱狂のなかを京都に着いたといわれています。
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「鎌倉大仏の中世史」より |

聖徳太子殿 多宝塔

阿弥陀堂

一切経蔵
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「然(ちょうねん)上人の墓

東大寺出身の「然は、中国・宋に渡り、仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させ日本に持ち帰った。
これこそ嵯峨釈迦堂の「三国伝来の釈迦像」である。
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閻魔の補佐官 小野篁(おののたかむら)

左、薬師寺。右、釈迦堂(本堂)

小野篁は小野妹子の子孫で、孫に三蹟の一人小野道風がいる。
篁には奇怪な伝説が多い。その中でも有名なものは、夜ごと井戸を通って地獄に降り、
閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたというものである。その井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、
この薬師寺の「生の六道」とは、その地獄からの出口といわれる。 |
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悪妻 日野富子
銅鐘には”従一位日野富子”
と刻まれている。
足利義政の正室日野富子は、
政治に興味を示さない夫に代わって
幕政に深くかかわって影響力を行使した。
京都七つ口に関所を作って課税したり、
米相場や高利貸しからの賄賂を受けるなど
利殖活動を行い、彼女の財力によって
室町幕府が運営されていた。
遺産はざっと七万貫(約70億円)。
自分の生んだ義尚(よしひさ)を将軍にするべく
足利義視VS義尚の構図が応仁の乱へ
そして、足利幕府滅亡へと繋がる。
巨万の富を築いた悪女・悪妻と評されるが、
富子の執念が乗り移ったのか
この鐘をつくと無病息災。入学祈願に効くと
庶民の間で言い伝えられるようになった。
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光源氏のモデル 源融(みなもとのとおる)

清涼寺は嵯峨釈迦堂として、人々に親しまれていますが、
源氏物語の光源氏のモデルとされる、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融の別荘がのちに寺とされました。
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豊臣秀頼の首
豊臣秀頼の首と見られる頭蓋骨が、昭和55年に大阪城三の丸跡から発見された。
秀頼ゆかりの嵯峨清涼寺では、首塚を造って納め、368年ぶりに安らかな眠りにつかせることになった。

この頭蓋骨は、20〜25歳の若武者で、首に介錯の跡があり、
左耳が不自由だったこと、そして発掘当時、頭蓋骨の周囲にシジミやタニシの生貝が敷かれ、
人為的に埋葬されていること、またその出土品などから、
大阪夏の陣と時期が合うことが判明し、豊臣秀頼の首と断定されました。 |

発掘後、調査を担当した大学でその首は保管されていましたが、
その年の5月に「大阪夏の陣秀頼・諸霊合同供養」が行われたことから、
「安らかに眠りにつける場所で供養しよう」という機運が盛り上がっていました。 |

清涼寺は秀頼が秀吉の死後に再興した寺で、
現存する山門は宇喜田秀家の妻(前田利家の娘)の寄進であり、
また秀頼に仕えて最後まで戦い、落城の際に千畳敷の御殿で自害したと
伝えられる、槍の名手、渡辺糺槍の菩提寺でもあります。 |

小豆島の自然石で造られた高さ1,5mの首塚には、首とともに、
秀頼が生前に書いて千姫に与えた御名号が真空のガラス箱に入れて納められている。 |
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