京都とベトナム
徳川家康は海外交易に熱心な人物であった。
多くの日本船が幕府から御朱印を頂き、長崎の港から出帆して行った。
当時の明帝国は日本船の来航を禁止しており、朝鮮との交易も対馬藩に
一任されていたため、朱印船は東南アジアへ舵を向けて旅立った。
特に安南と呼ばれた現在ベトナムのハノイは重要な貿易港であった。

角倉了以の先祖は「吉田氏」。近江の国から室町時代の中ごろに上洛し、
幕府お抱えの医者として勤めた家柄だった。偉業で得た財を元に
「土倉」という一種の質屋・高利貸業を営むようになった。
京都には
茶屋四郎次郎の「茶屋家」、
後藤庄三郎の「後藤家」、
そして「角倉家」という
「京の三長者」といわれる
勢力があった。
他の二家が
徳川家康に接近することで
急成長したのに対して、
角倉家はそれ以前より
成功していた商人であった。
茶屋四郎次郎邸跡
「角倉」とは運営していた土倉の屋号からとられた名前だ。
京都嵯峨に生まれた了以は、祖父からの企業家としての精神と、
医者であった父からの科学的分析力を受け継ぎ、土倉経営を
家業の中心に発展させ、豊臣秀吉からの初期朱印船に加わり、
その後ベトナムなどとの貿易で莫大な富を得た。
江戸開幕府から3年後に、了以は蓄えた財力により大堰川開掘を始める。
上流の亀岡から嵯峨までの30数キロの開削工事であった。
その工事には自ら石斧を振るって仕事にあたったと言われる。

これによって丹波地方の農作物が新鮮なまま大量に京へ運ばれはじめ、
嵯峨近辺は発展した。材木も筏で運送され、大変便利になった。
現在でも嵐山近くにその名残の材木商による貯木場がある。
その後、富士川・天龍川・高瀬川等の開削工事を行い、
中でも淀川から鴨川へ物資を運べるようになった高瀬川の開削工事は、
京都発展に大きな功績を残し了以の名を高めた。

高瀬川一之船入
二町のぼれば大悲閣
「花の山 二町のぼれば 大悲閣」
という松尾芭蕉の句がある。
嵐山右岸を上流に二町登ると、
了以が大堰川の開削工事協力者の
菩提を弔うために、建てた大悲閣(千光寺)があり、
山腹の小堂には了以の木像がある。

「花の山 二町のぼれば 大悲閣」 芭蕉
了以も大悲閣に住み込み、
工事を督励していたそうだ。
この大悲閣から大堰川を挟んだ向かい側の
亀山公園にも角倉了以の銅像がある。
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すこし、一休み



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