「映画装飾」京都ウエストサイド物語

 京都 太秦エリア

「映画装飾」と荒川大の仕事

   


   「装飾一代」京都の映画


ダイさんは京都の太秦で小道具一本の裏方、
その一生を、映画装飾に捧げたひとだった。

義父、ダイさんはケンカが強かった。
背は低かったが、若い頃はボクシングで腕を鳴らした。
鉄火場のような撮影現場で
  すぐに大立ち回りをやらかしてしまうために、
大さんのための始末書が
   事務所の机にはいつも積んであったそうだ。
荒川大(あらかわまさる) 装飾家(小道具)
大正4年2月26日生まれ。東京都出身。幼少より関西に住む。親の代からの小道具で筋金のとおった小道具一本の裏方。溝口健二とは「残菊物語」で出会い、たちまち傾倒、以来「元禄忠臣蔵」「夜の女達」から「西鶴一代女」に至るまで、病的なほどに小道具にうるさい溝口健二と積極的にわたりあい、目立たない影の存在となって溝口作品を支えた。その経験を見込まれ、フリーになってからも多くの監督から引き合いがあり、一生を映画装飾に捧げた。代表作「縮図」「夜明け前」「怪談」他多数。享年84歳
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荒川大作品リスト

(昭和12)大坂夏の陣〔衣笠貞之助〕
      〜松竹京都下鵯撮影所入社〜
(昭和13) 黒田誠忠録〔衣笠貞之助〕
(昭和14) 残菊物語〔溝口健二〕
(昭和15) 浪花女〔溝口健二〕
(昭和16) 芸道一代男〔溝口健二〕
      元禄忠臣蔵・前編〔溝口健二〕
(昭和17) 母子草〔田坂具隆〕
      鳥居強右衛門〔内田吐夢〕
      元禄忠臣蔵・後編〔溝口健二〕
(昭和18) 海軍〔田坂具隆〕
      鷲王岬〔伊藤大輔〕    
        〜8月応召〜
(昭和19)  〜軍務に就く〜
(昭和20)  〜終戦〜
(昭和21)
(昭和22) それでも私は行く〔萬木孝一〕
       〜フリーの装飾係に〜
(昭和23) 夜の女たち〔溝口健二〕
(昭和24) 森の石松〔吉村公三郎〕
      わが恋は燃えぬ〔溝口健二〕
      四谷怪談・前編〔木下恵介〕
(昭和25) エデンの海〔中村登〕
      雪夫人絵図〔溝口健二〕
      黒い花〔大曽根辰夫〕
(昭和26) 偽われる盛装〔吉村公三郎〕
      愛妻物語〔新藤兼人〕
(昭和27) 原爆の子〔新練兼人〕
      どぶ〔新鱗兼人〕
      西鶴一代女〔溝口健二〕
(昭和28) 女の一生〔新藤兼人〕
      千羽鶴〔吉村公三郎〕
      夜明け前〔吉村公三郎〕
      縮図〔新藤兼人〕
      村八分〔今泉善珠〕
      蟹工船〔山村聡〕
(昭和29) 足摺岬〔吉村公三郎〕
      若い人たち〔吉村公三郎〕
      芸者秀駒〔佐藤武〕
      泥だらけの青春〔菅井一郎〕
(昭和30) 愛すればこそ
      〔吉村公三郎.今井正,山本薩夫〕
      狼〔新藤兼人〕
      楊貴妃〔溝口健二〕
(昭和31) 女優〔新藤兼人〕
      真昼の暗黒〔今井正〕
(昭和32) 異母兄弟〔家城巳代治〕
      挽歌〔五所平之助〕
      黄色いからす〔五所平之助〕
(昭和33) 女侠一代〔内川清一郎〕
       〜京都歌舞伎座 映画部へ〜
      螢火〔五所平之助〕
      呪いの笛〔酒井辰雄〕
      夜の鼓〔今井正〕
(昭和34) 江戸遊民伝〔萩原遼〕
      太陽に背く者〔酒井辰雄〕
      高丸菊丸〔丸根賛太郎〕
(昭和35) 女の坂〔吉村公三郎〕
    太陽にかける橋〔H・N・ベリエ(仏国)〕
(昭和36) 雲がちぎれる時〔五所平之肋〕
      飼育〔大島渚〕
(昭和37) 海猫が飛んで〔酒井辰雄〕   
       〜NHK名古屋へ〜
(昭和38) 怪談〔小林正樹〕
(昭和39) 鬼婆〔新藤兼人〕
      乾いた花〔篠田正浩〕
(昭和40) 四谷怪談〔豊田四郎〕
      姿三四郎〔内川清一郎〕
(昭和41) 処刑の島〔篠田正浩〕
      望郷と掟〔野村芳太郎〕
      白昼の通り魔〔大島渚〕
      007は2度死ぬ(米国)
(昭和42) あかね雲〔篠田正浩〕
      無理心中 日本の夏〔大島渚〕
    上意討ち一拝領妻始末一〔小林正樹〕
      日本春歌考〔大島渚〕
(昭和43) 怪談残酷物語〔長谷和夫〕
      吸血鬼ゴケミドロ〔佐藤肇〕
      帰って来たヨツパライ〔大島渚〕
      絞死刑〔大島渚〕
      夫婦善哉喜劇〔土居通芳〕
(昭和44) 心中天綱島〔篠田正浩〕
      橋のない川〔今井正〕
      新宿泥捧日記〔大島渚〕
(昭和45) 無頼漢〔篠田正浩〕
      いのちぼうにふろう〔小林正樹〕
(昭和46) 婉という女〔今井正〕
      沈黙〔篠田正浩〕
(昭和47) 子連れ狼・冥府魔道〔三隅研次〕
(昭和48) 青幻記〔成島東一郎〕
(昭和49) 桜の代紋〔三隅研次〕
(昭和50) ある映画監督の生涯〔新藤兼人〕
      桜の森の満開の下〔篠田正浩〕
(昭和51) 愛のコリーダ〔大島渚〕
(昭和52) お吟さま〔熊井啓〕
(昭和53) 愛の亡霊〔大島渚〕
(昭和54) 黒髪〔栗崎碧〕
(昭和55) 炎のごとく〔加藤泰〕
(昭和56) 曽根崎心中〔栗崎碧〕
      悪霊島〔篠田正浩〕
      北斎漫画〔新藤兼人〕
(昭和57) 戦場のメリークリスマス〔大島渚〕
      犬死せしもの〔井筒和幸〕
      裸足の人〔播磨晃〕
(昭和58)瀬戸内少年野球団〔篠田正浩〕
(昭和60)鑓の権三〔篠田正浩〕

大さんの父 荒川潔

松竹下賀茂撮影所
溝口健二監督

昭和14年「残菊物語」撮影風景
独立プロ
昭和31年 今井正監督「真昼の暗黒」

昭和50年頃の京都大映撮影所

授賞式で西岡善信、宮川一夫、篠田正浩氏らと

「戦場のメリークリスマス」 戸田重昌氏とフィジーにて

昭和60年「鑓の権左」台本
大さんはフリーの映画小道具スタッフとしてその生涯をまっとうした。

大さんの父潔(きよし)は、美術品の目利きができた事で、当時、映画撮影のための道具貸し出し業を始めたばかりの高津嘉之氏に見込まれて、現在の高津商会草創期に大いに力を貸した。

その影響から、自然の成り行きで大さんも、小道具一本の裏方として映画業界に入っていくことになった。

携わった映画は100本近くに上り、溝口健二監督から大島渚監督まで多岐にわたる。

特に病的なほどに小道具にうるさい溝口健二監督と積極的に渡り合いながらも、その人柄を愛され、私事に渡ってもよく仕え、目立たない影の裏方として作品全てを支えた。

溝口健二の、映画に対する異常な情熱に対して多くの人が畏怖さえ感じたという。大さんはそんな溝口流カツドウ屋精神を守り続けた、最後の映画人の一人だったのではないだろうか。

「娯楽だった映画が総合芸術といわれるようになったのは溝口健二がいたからだ」とよく讃えられる。そのおかげで、大さんは
「小道具係り」から「装飾家」といわれるようにしていただいたと言った。

その後大さんはフリーの装飾屋になった。
会社に所属しないには訳があった。大さんは好きな映画や監督としか仕事しないのだ。

完璧主義の溝口監督に鍛えあげられた大さんが、大量生産される大手のマスプロ映画に魅力を感じなかったのは想像できる。そしてその後、独立プロの映画スタッフとしてその力を発揮する。

独立プロとは、戦後のGHQ統治下の撮影所における労働争議に端を発し、レッドパージによって退社を余儀なくされた映画人が合流して、50年代初頭に華々しい展開を見せた独立プロ運動を指す。

フリーになったスタッフには有能な人材が多くいた。そのため、東宝、松竹、大映といったメジャーの撮影所に劣ることのない、格調高く、リアリズム、ヒューマニズムに溢れた数多くの作品が産み落とされていく。

しかし、独立プロの製作には慢性的な資金不足がついてまわり、多くのスタッフが手弁当で参加した。

大さんは、消え物の小道具予算を少しでも節約するためなら、鍋や釜、娘のランドセルや明日必要な教科書まで持って行くなど日常茶飯事でした。

相当の事にはもう慣れていた家族だが、さすがに仏壇を持っていかれたときには、あきれてみんな口がきけなかった。

ある映画では、家のほとんどの家財道具をみんな撮影所へ持っていかれたために、妻のハルさんはこう叫んだ。
「そんな事ならうちでロケをすれば良かったのに」。

優秀な監督に優秀なスタッフが集まるとは限らない。あのカメラマンだからとか、あの美術監督だからなどという横の関係が実はものを言う。

ましてや美術監督と装飾屋は気っても切れない関係だ。戸田重昌がやるなら俺もやるか。と言う風に優秀なチーフに優秀なスタッフが自然と集まってくるのだ。

実際の話、優秀な脚本と、優秀なカメラマン、優秀な美術監督がいれば、監督無しでもある程度の作品は出来てしまうだろう。

大さんはフリーの熟練職人であったために、会社に飼い殺しにされることなく、常に一流のスタッフと新鮮な気持ちで仕事に打ち込むことができた、幸せな映画人の一人ではなかっただろうか。

たとえ定期収入が無くっても、家にお金を入れなくても大さんにみんな憧れたのではないかなあ。

大さんは父親からの長い関係で、高津商会の小道具倉庫内なら隅から隅までを把握していた。そればかりか重文級の美術品までをも、会長との直談判で借り出すテクニックも持っていた。これには高津商会もホトホト困っていたらしい。

篠田正浩監督の「鑓の権三」では床の間に飾った香炉を前にスタッフ全員に叫んでいた「これには絶対に触れるな!この映画の制作費より高いぞ」・・・。

新藤兼人監督が語る 「大さん」 
 (昭和59年 サンケイ新聞日曜版連載「小さな窓から」より)


竜安寺門前町。嵐電北野線竜安寺駅から、
一筋の狭い参道をのぼると石庭で知られた竜安寺に達する。
この間の町並みは数十年来いささかの変化もない。
八百屋、小間物店、理髪店、駄菓子屋、染物屋、銭湯など、
京の古い町の一郭がそのまま残っている。


町並みの中ほどから横丁へ細い小路をはいると、A君の長屋がある。
A君は映画の装飾をやる小道具屋さん。五十年この仕事をやっている。
この長屋に住みついてから六十年、親の代から同じ揚所だ。

父親も小道具一筋に生きた人だった。小道具の仕事はどんなことか、
一応説明しなければなるまい。

撮影所のステージに大道具がセットを建てると、道具を入れて飾りつけをする。
洋室、和室、オフィスなど、ドラマの内容にふさわしい調度をととのえる。
簡単なようだが、最低十年の年期を入れなければつとまらない。
小道具の飾りつけいかんで役者の演技も生きるし、
役者が生きなければ監督も死ぬわけだ。

少年のときから親父に仕込まれたA君の腕はたしかなものだ。
溝口健二の「残菊物語」以来ほとんどの作品を飾っている。
溝口リアリズムは小道具の飾りつけからはじまるといわれたぐらいで、
無理難題の注文に小道具は泣いたものだが、
A君は溝口健二の懐にとびこんで、よくたすけた。

A君は若いとき、ボクシングに深入りして、
四回戦ボーイとしてリングにあがったこともあったが、
耳を強打されてリングから下りた。
それが原因で耳が遠くなり、口より手が先に出るけんか早い性格に、
さらに輸を掛けた。耳の感度はしだいに鈍くなっていった。

映画づくりは集団の作業だから、耳が不自由なためにスタッフの中で
孤立することもあったが、だんだん彼は自信をとり戻した。
細君のたすけがあったからである。

昭和十七年に、世話する人があって見合い結婚をした。
20代の半ばに達していた。女性は撮影所の編集部にいた。編集助手だった。
照れ屋の彼は見合いの席でろくに相手の顔を見もしなかったが、
親からとにかく身を固めろといわれ、結婚した。

嫁さんは、小柄で細面、ごついA君とは対照的だった。
純粋な京の女で、たえず目もとに微笑があった。
京都弁がこのひとの口をついて出るととくになめらかで、
まるで歌うような快さがあった。夫唱婦随、夫のすることなら
ともに火の中へでも、というような古いひとだった。

夫の耳がもっとひどくなった場合を考えて、洋裁を習って職を身につけた。
A君はこの細君の懐でしだいに落ちついた。

夫婦は子どもになかなか恵まれなかつた。
12年後にやっと生まれた女の子が大きくなって
大学でフうンス語をやり、A君はフランスヘ留学さすんだといっていたが、
娘は親を安心させるために早く結婚しようと思った。

高校生時代のボーイフレンドが同じ町内にいて、これと婚約した。
相手は消防士だった。この緒婚式に、大島渚監督と私が招待された。

A君は大島監督とウマが合って、大島作品を手がけてきた。
式揚には面白い取り合わせが相対した。カッドウ屋と消防隊である。
消防隊長を先頭に先輩や同輩の制服がずらり。花嫁花婿は大いにリラックスして、
「世界は二人のために」を合唱し、祝宴は盛りあがった。

A君この日のイデタチは、紋付き羽織袴(はかま)。
かりてきた猫のように微動だにせずテーブルについていた。
紋付きが似合わない、そのはずである、生まれて初めて着たのだ。
おまけに貸し衣装屋のものだからぴったりこない。
しかし私には、この日のA君は立派に見えた。

ぐっと唇を結んだ表情は老侠客(きょうかく)の力ンロクを思わせ、
なんとかこの場を無事にという忍耐が感じられた。
花婿から、型どおりの花束をもらうとき、彼は大いにまごつき、
二、三べんふかぶかとおじぎをくり返した。

「お父ちゃんの喜ぶことやたら、なんでもしてあげたい」と
娘はかねがねいっていたが、結婚ということで無事役をはたした。
A君の紬君は、終始無書で、いつものようににこにこしていた。


新藤兼人監督 「どぶ」 左から宇野重吉、音羽信子、殿山泰司  

      いかつい風貌の大さん

愛妻ハルさんとの新婚時代               

       内助の功

      待望の娘誕生

昭和42年大島渚監督「無理心中 日本の夏」 佐藤慶氏と     
 昭和53年
 大島渚監「愛の亡霊」
 田村高廣氏と

  

ライカと短刀

大さんは元々江戸っ子の生まれである、だから気前がいい。

気に入った人には何でも気前よく物をあげてしまう癖があって、
家族は迷惑したそうだ。妻の物でも、娘のものでも全く関係なかった。
文句を言うと、「また買えばいいだろう」とのこと。
しかし、大さんが家にお金を入れたことはない。
働いたお金は全て自分で使うのが流儀だ。

近衛兵だった父が陛下より拝領した形見の短刀を、
ライカのカメラと交換してきたときには、さすがに母は泣いて怒った。
譲って欲しいと頼まれたので交換したのだそうだ。
そのライカは何度も質入れされて、流れそうになったが、
その度にハルさんがうけだし奇跡的に今も残っている。

仕事がなくなると、子守りと称してハルさんから小遣いをもらい、
子連れでパチンコや競馬、競輪にいそんしんだ。
貧乏な独立プロの映画作りでは生活できずに、泣く泣く
大手映画会社に鞍替えするスタッフが多い中、
大さんが好きな映画と好きな監督だけの仕事ができたのは、
全て妻ハルさんがいたからだった。

仕事仲間で大さんの悪口を聞くことはあっても、
大さんの奥さんを悪く言うひとは誰ひとりいなかった。
どのスタッフもハルさんのような奥さんが欲しかったに違いない。

そんな大さんが大判振る舞いできた映画があった、洋画007だ。

契約初日に外国人スタッフからギャラの交渉を受けた。
いつもいくら貰っているのかという質問だった。

すこし吹っかけてやれと思って、いつも貰う映画一本分の、
2倍の金額を言ったら、すんなりOKだった。
失敗したかなと思いつつ一週間後その金額が振り込まれてきた。

さすがは洋画だ、前払いしてくれるのかと思っていたら、
その一週間後にまた同額のお金が振り込まれてきた。

なんと尋ねられたのは、週給の金額だった。
昭和35年「女の坂」 吉村公三郎監督 (前列左)             大さん (右2人目)  

       高千穂ひづる 、 河内桃子、 乙羽信子、    佐田啓二、 岡田茉莉子

昭和36年「雲がちぎれる時」五所平之助監督作品 仲代達矢、有馬稲子 大さん(左上)

奇跡的に残ったライカM3
上は監督から、下は小道具まで
大さんにとって溝口健二監督は師匠であり、
映画をつくるスタッフとしての基本的心構えから
叩き込まれ特別の人だったらしい。
その後多くの監督の下で働くときにもその
叩き込まれたスタンスは生涯変わらなかった。

しかし大さん、新藤兼人監督と働くときには違っていた、
「映画の世界では、上は監督から下は小道具まで、
という言い方をしたもんだが、ここではそう感じないねえなあ」
と言ったそうだ。晩年まで、大さんは新藤兼人監督の事を、
同志のように親愛をこめて「新藤やん」と呼んでいた。

演出家として一番好ましく尊敬していたのが小林正樹監督らしい。
特に日本映画史上今でも論争される超大作「怪談」には
大さんも相当力を入れていたようだった。

そのスケールだけではなく、映像の限界に挑むような
実験的要素もふんだんにあり、配役も素晴らしかった。
天才美術監督戸田重昌と渡り合いながら、
1年にわたるスタッフ達の集中力はすごかったらしい。

大さんはもともと資料を残さない性格だ。
暇があると庭でゴミを燃やすのが趣味というひとで、
台本などほとんど残っていない。その大さんが、
「怪談」に関してだけはクランクインから封切り後の映画評まで、
新聞の切り抜きをしていたほどだから、その熱の入れようが分かる。

小林正樹監督には夢があった。井上靖原作の「敦煌」だ。
「怪談」の大赤字で、立ち直れぬままに独立プロは解散した。
その後も、数々の名作を撮り続けた小林正樹監督だったが、
いつも言う口癖があった。
・・・・ もう一度、「怪談」のスタッフで「敦煌」が撮りたい ・・・・

撮影に妥協を許さない巨匠だけに、「怪談」の二の舞を恐れる
スポンサーたちは、自然と逃げ腰になる。
幻の巨大企画は実現せぬ間に時は過ぎていった。

昭和63年東宝配給、佐藤純彌 監督で「敦煌」が作られた。
その6年後、小林正樹監督は亡くなる。享年80才

私は「怪談」スタッフによる「敦煌」を頭の中で想像してみた。
それだけで胸がワクワクした。

溝口健二監督 墓前にて

新藤兼人監督と

大さん(手前)と小林正樹監督(奥)   「怪談」撮影現場にて

当時考えうる限りの英知を集結させ、執念で完成させた超問題作「怪談」

最終総制作費3億2千万円 全てにおいて飛びぬけたスケール
小道具屋の哲学

大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」で、ハラ軍曹を
演ずるところのビートたけし氏に、大さんは
身につける小道具として「お守り」を渡した。

お守り袋の中には、小さな仏像が入っていた。
それはロシアのマトリョーシカのように小さな仏像の中に、
また小さな仏像が入っているというなかなか凝った物だった。

しかし、そのお守りは肌身につけるもので、決して映画の画面に
映ることはないのだ。不審に思うビートたけし氏をよそ目に、
何を言うこともなく、知らん顔の大さんである。

画面に映らなくても、ハラという軍曹になりきるためには、
そのお守りが必要なのだと、大さんは考える。

役者もそのお守りを身につけたとき、メラメラと音を立てて、
ハラという軍曹に変身する気がしてくる。
本身の刀を構えるだけで、役者の演技が変わるように・・・

それを引き出すのが小道具屋の技なのだ。


昭和57年「戦場のメリークリスマス」大島渚監督作品  坂本龍一氏と
    大島渚&おすぎとピーコの雑談
大島  うん。そのことを僕だけじゃなくて、僕の映画をつくるチームの連中はネ、知ってるわけ
     よね。荒川大なんて六十いくつのおじいさんがさ、(声をつぶした口真似で)「監督、なん
     て呼べばいいんスか。杉浦先生ですか」っていうわけだからさ。(笑)杉浦先生っていわ
     れておすぎはガックリきてたけどさ。でもほんとにそれはネ、溝口健二からつかえてきた
     大(だい)小遺具・・・ 大小道具っつったらおかしいけどさ。

おすぎ でも、もうほんとに:…・

大島
 装飾の方がさ、“杉浦先生”つってゆうんだ、やっばりね。そういう敬意の尽くし方がね。

ピーコ あたし、だからそういうとこを学びたい。だからお仕事していくうえで--

おすぎ いや、うっれしイいですものねえ。荒川大さんが、泊まってっとこまできてくれて、そいで
     一生懸命、こうなんだ、こうなんだって、戸田重昌美術監督とケンカしながら、おすぎを間に。
     もう恐れ入ってネ、穴があったら入りたいような感じの事をしてくれたわけね。でもこの人は、
     (大島を指して) なっんにもッ、この人はなんにもゆってくンなかったのよ。

大島
  この人はなんにもゆわない。この人は白然に出てくるのを待つだけの人だからさ。

おすぎ でもあたしは藤竜也さんにね、ほオんとにおすぎは辛せだねってゆわれたの。
      荒川大さんがネ、涙を流すくらいにいろいろゆってくれる-…・「杉浦さん 」っていうの。

ピーコ
 でもそういうところを生きてるとこで、仕事をしてるとこで学べたら最高ですね。

              昭和54年エイプリル出版おすぎとピーコの こんなアタシでよかったら」より抜粋

杉浦孝昭氏と大さん

大島渚監督
 


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