高貴な方が住むところ それが御室でした
「室」(むろ)とは僧の住む所のことで、
高貴な方が住む室を特に御室と言います。
これが、その後の仁和寺付近の地名の由来になりました。
宇多天皇は洛中の御所からこの地に法務の場所を移されたため、
仁和寺は「御室御所」といわれました。
以来、この寺は皇室の私寺として高い格式を守り続け、
近世初頭には仏教はもとより、歌会をはじめ、茶の湯、
御室流華道など、さまざまな宮廷文化が華開いてゆきます。
王朝貴族は別荘などを建てて、双ケ丘での鷹狩りや
大きな池で、風雅な船遊びなどをしていたそうです。
そんな環境からか、沢山の才人が生まれました。
京焼色絵陶器の大家、野々村仁清もそのひとりです。
中世以前の陶工は無名の職人にすぎませんでしたが、
仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺して、
これが自分の作品であることを宣言しました。
仁清は「作家」「芸術家」としての意識をもった
日本最初の陶工といえます。
有名な絵師・陶工でもあった尾形乾山と兄の尾形光琳、
その後を受け継ぐ高橋道八も仁和寺から号をもらいました。

国宝 尾形光琳筆 燕子花図 |
御室を中心にした芸術家達が、その才能を発揮できたのも、
風雅を育む御室の気風によるところが大きかったのでしょう。
兼好法師ゆかりの双ケ丘(ならびがおか)
「徒然草」を執筆した兼好法師が庵をむすんでいたのが双ケ丘です。
つれづれなるまゝに、日くらし、硯(スズリ)にむかひて、
心に移りゆくよしなし事(ゴト)を、そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ。
声に出して詠むと、古典の授業を思い出し、頭が痛くなってきます。
しかし、歳をとるとこの文語体のリズムが
なんとも心地よく感じてくるものです。
最近になって「徒然草」の現代語訳を読んで大笑いし、
感心し、最後は感動しました。恐るべき吉田兼好。
代々吉田神社の神職であった家に生まれ、
後宇多天皇に北面の武士として仕えましたが、
上皇の死後出家して兼好を名乗ります。
文章に書いてしまえば簡単な略歴ですが、
この時代は日本史にとっても大変な時代でした。
後宇多天皇は後醍醐天皇の父で、二度の蒙古の襲来という
日本国最大の危機を亀山上皇・北条時宗らとのりきった人です。
兼好は後宇多天皇の死後出家し、鎌倉幕府の崩壊と、
後醍醐天皇、足利尊氏らによる南北朝という皇位継承闘争の渦を
すぐ間近に見てきました。それゆえに感じる無常観が
「徒然草」の基礎になっているといわれています。
しかし世捨て人となった兼好の達観した文章に暗さはありません。
強烈な皮肉や、世評、教訓、人生論など、兼好法師の感情や人柄、
教養がほとばしり、読み出したら止まりません。
双ケ丘全景
ところで兼好法師の「徒然草」は壁紙だったという説があります。
歌人の今川了俊という人が、兼好の死後に
なにか兼好法師の形見が残っていないかを探させたそうです。
兼好という人は、もともと何かを世に残そうなどと
思うような人ではなかった。だから当然何も見つからなかったが、
草庵の壁やら襖紙に貼ってあった古紙に注目する。
兼好は時々考えたことを「そこはかとなく」書いてはいたらしい。
もちろん発表する気も無く、壁紙の代用にしていたというのです。
今川了俊は丁寧にそれを壁からはがして、
現在の順序にまとめ「徒然草」としたというのです。
こんな説が、本当に思える世捨て人「兼好法師」の悟りの境地を
是非、是非、一読願いたい。
「御室」にあった「オムロン」
今では世界の「オムロン」としてその名を知らない人はいないほど
超有な企業になりました。
その発祥の地が御室であり、企業名‘オムロン’の発祥地です。
ちなみに私の叔母は、女子事務員として働いていました。
発祥の地の前身は「双ケ丘撮影所」でした。片岡千恵蔵や嵐寛寿郎ら
日本映画の創成期に活躍した俳優らが1928年に設立したものです。
近くにマキノ省三の撮影所もあり、多くの映画と大スターを輩出し、
御室は日本映画のゆりかごともいうべきところです。
仁和寺の隣りにある蓮華寺

五智山・蓮華寺のホームページhttp://www.kyo-ori.com/kawasima/gotisannpeizi.htm
「きゅうり封じ」のお寺として知られていますが
双ケ丘撮影所ゆかりの大スター片岡知恵蔵さん、
時代劇の名監督、伊藤大輔氏らのお墓があります。
映画ファンなら是非、お参りしたいところです。
|
|

宇多天皇 |

御室流華道 |

仁清窯跡 |

国宝 野々村仁清作 色絵雉香炉 |

乾山色絵薄図蓋茶碗 |

兼好法師 |

双ケ丘 古墳 |

後醍醐天皇 |

兼好法師ゆかりの長泉寺 |

徒然草(書写) |

兼好塚 |

オムロン発祥の地 |

マキノ撮影所跡 |
 |

蓮華寺 片岡知恵蔵の墓 |
|