「妙心寺」と京都観光
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「妙心寺」京都ウエストサイド物語
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京都「妙心寺」が遊び場だった
京都の臨済宗妙心寺は、全国約3500ヶ寺の大本山。
正式名は「正法山妙心寺」
子供の頃の妙心寺は、池でザリガニや亀を捕ったり、
鬼ごっこをしたりする 絶好の遊び場でした。
お盆の「お精霊迎え」では沢山の出店がならんで
一日中を妙心寺の境内ですごした。
思春期にはデートコースでもあり、
夜の肝だめしにも使ったなあ。
思えば不謹慎極まりない狼藉の数々を、
どうぞお許しください。
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昭和30年代の妙心寺にて
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花園 妙心寺「塔頭めぐり」のページへ
妙心寺には塔頭(たっちゅう)がたくさんあります。非公開の塔頭が多い中、
いくつかは通年公開されており、また季節により特別公開もされることがあります。 |
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日本随一の七堂伽藍
妙心寺内13万坪に一歩足を踏みいれると、まるでそこは時代劇の世界に逆戻りします。
松の古木につつまれた七堂伽藍のたたずまいはどこまでも格調高く、広大な境内につらなる白壁、
無数に思える塔頭の甍による美しさは、まさに何度も京都を訪れている人の「しっとり旅」にふさわしい寺院です。
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伽藍 |
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鐘楼 |
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山内寺院は本山とともに史跡名勝地に指定され、蔵される古文書及び絵画等の文化財は著しい数にのぼり、
妙心寺はわが国の禅文化の一大宝庫でもあります。 |

方丈 |
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塔頭群 |
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1337年
1342年
1348年
1360年
1399年
1432年
1467年
1477年
1615年
1629年
1868年
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妙心寺 たび重なる波乱の歴史
花園上皇は、大徳寺を開山した大燈国師の弟子である
無相大師(関山慧玄)に願い、妙心寺を開創される。
花園法皇は妙心寺の傍に玉鳳院を建てられ、
そこから関山に厚く参禅されました。
花園法皇は花園御所跡を関山慧玄にまかせられます。
これで妙心寺の寺基が定まりました
花園法皇が52歳で逝去。妙心寺に寄せる熱い思いは
「往年の宸翰」にしたためられています。
関山慧玄が亡くなる。
妙心寺は応永の乱を起こした大内義弘との関係が
深かったために、3代将軍足利義満は妙心寺住職を
幽閉し寺を没収。龍雲寺と改名させます。
妙心寺が返され、尾張犬山の瑞泉寺から迎えられた
日峰宗舜禅師が中興。
応仁の乱による兵火で妙心寺、竜安寺と共に焼失。
後土御門天皇の勅によって雪江宗深禅師により再興。
安土桃山時代から江戸時代にかけ、諸国の武将の
帰依を受け、禅宗七堂伽藍が整備された。
大阪落城とともに、江戸幕府が多くの法度を制定。
きびしく幕府の管理下に置かれることになる。
特に大徳寺と妙心寺に対しては別に寺院法度を定めて、
厳重な制限を敷いた。
紫衣事件。
妙心寺と大徳寺の禅僧が江戸幕府の寺院法度に抗議し、
沢庵禅師ら4人の僧が流罪などの処罰を受ける。
神仏分離令が発布され、各地で廃仏毀釈が起こり、
寺院の取り壊し、仏像や経典などが破棄され、
妙心寺もその影響を受ける。
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| 重要文化財 玉鳳院 |
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| 花園法皇御宸翰 |
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| 3代将軍足利義満 |
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| 応仁の乱 |
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| 明治の蛮行 廃仏毀釈 |
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国宝 宗峰妙超 筆「関山号」 |

今も変わらぬ雲水による托鉢 |

立ったまま息を引取られた井戸「風水泉」
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これは後に作られた関山像 (美濃正眼寺) |
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ミスター妙心寺 関山慧玄(かんざんえげん)
関山慧玄は知るほどに心に打たれるスゴイひとです。
信濃の信仰心厚い家庭に生まれた関山は、鎌倉に出て大応国師の基で仏門に入り、
国師の死後もそこにとどまり修行していました。そして、ある法要の際に隣にいた僧から
「今天下で最も優れた僧は京都の宗峰和尚だ」と聞きます。
関山はそのまま鎌倉を去り、野宿をしながら一路京都に向かい、
大徳寺の宗峰妙超(大燈国師)に会いに行きました。
すぐに関山は禅問答で「如何なるか、これ宗門向上のこと」(悟りの境地とは
どんなものか)と質問しました。宗峰和尚は即座に「それは(関)の字だ」と答えます。
これが有名な「雲門の関字」という公案でした。
宗峰和尚は関山を一目見て、禅者としての力量を見抜ぬいたといいます。
その後、美濃の山里で8年間悟りの修行に専念し、関山はついに"関字"を悟ります。
その見解に宗峰和尚はおおいに悦び「関山」の号を授けました。
宗峰妙超がその時書いた「関山号」は、国宝として今も妙心寺に所蔵されています。
その後も関山は、美濃伊深の山里に旅の途中の僧侶として住み着き、夜は坐禅、
昼は木こりの伐採の手伝い、牛の手綱を取って畑の耕し、種まきや収穫の手伝い、
道路の普請の手伝いなどで、山里の人々から慕われていたといわれます。
里の庵には、雨雪をしのぐ蓑がさに、割れ鍋、水桶しかなかったそうです。
花園上皇の使いは、伊深の里に隠れ住んでいる関山を探し出し、辞退する大師を
説得して、花園の離宮を改装した、正法山妙心寺開山禅師として迎えました。
この妙心寺の開山となって都へ招かれた際に、伊深の里の村人数十人が
関山の身の回りの世話をして使えるために、花園に移住したそうです。
私の町内の近くは、その人達が住んでいた所で、今も子孫の方がおられます。
都へのぼり、妙心寺の開山となっても、関山の禅風は全く変わりませんでした。
厳格で形式に拘らず厳しく弟子を指導し、その生活は質素をきわめていたそうです。
禅修行に専念したその姿は「本朝ならびなき禅哲なり」と称賛されました。
生涯に奥義を与えたのは、後の妙心寺2世と呼ばれる「授翁宗弼」ただ一人
というところからもその厳しさがうかがえます。また妙心寺の伽藍の整備や
経営などには全くこだわらなかった事からも、その人柄がうかがえます。
関山には他の高僧のような語録や著書は一切ありません。
生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた
印可状以外ほとんど残されていないそうです。
さらに弟子に命じて肖像さえ残させませんでした。
まさに自分がこの世に存在した事を消し去ろうとしたかのごとくに見えます。
すぐに地位や名声を欲しがり、銅像を造りたがる政治家と・・・
1360年12月、関山は行脚に出るといい旅の支度をして
弟子二人をたずさえて「風水泉」と称する井戸の辺に立ちます
そして弟子たちに向かって遺戒を唱えた後、最後まで一修行僧として
立ったまま息をひきとったといいます。
関山の禅は、後に他の臨済宗諸派が絶法したのに対し、
その法灯を今日まで伝えています。
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