祇王寺にまつわる、平清盛と白拍子祇王の物語は、その真偽の程を云々するのではなく、
人間の悲喜交々が今も昔も変わらず、はかないものだと痛感します。
そもそも白拍子とは、年端もいかぬ女の子が男装して、歌と舞いを人前で披露する芸人です。
遊女が白拍子になったり、白拍子が遊女であったりして、
平安末期の娯楽としては、これほどエロチックで凄いものはなかったのではないでしょうか。
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白拍子が有力者の目にとまればパトロンとなりそれは妾ということです。
封建制度の社会は、位の高い金と権力を持った人間と、
トコトン貧乏な平民とにはっきりしていましたから、
清盛に召抱えられた祇王が大変な出世だった事は想像できます。
妹の祇女と母親も一緒に大邸宅をあてがわれて
さぞ優雅な暮らしをしていたことでしょう。
しかし所詮は妾であり、次に仏御前という新人が現れたので
お払い箱という運命が待っていました。
祇王が去るときに歌ったうた。
「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはではつべき」
今絶頂のあなたも、去ってゆく私も、所詮同じ芸人の白拍子、
そのうちはかない運命になるでしょうと歌いました。
白拍子といえば、有名な静御前は義経の愛妾となり、
変遷ののち身ごもった義経の子は、頼朝によって由比ヶ浜に沈められます。
そのとき静御前の年齢は19歳。
この悲しい話といい、祇王の話といい「白拍子」という言葉には、
とても物悲しい響きを感じます。

嵯峨野の祇王寺は清盛のもとから去った祇王、妹の祇女と母が
出家して暮らした草庵といわれています。
そして、そのあとに祇王のあとに寵愛を受けていた仏御前が
自ら清盛の元を去り、剃髪までして嵯峨野の祇王のところへやってきます。
ちょっと信じられない行為に、祇王も驚いたことでしょう。
その真意のほどは、だれにも解りませんが
捨てられる前に捨ててきた、という単純なことではないはずです。
その後、四人はこの祇王寺で、日々念仏を唱える生活を送ったそうです。
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